【藤堂高虎】赤木城跡【霧と山桜】
・Youtube 水無月の日本探訪記
【藤堂高虎】赤木城跡【霧と山桜】
https://youtu.be/jery15N1LHs
今日ご紹介するのは「赤木城跡」です。
場所は紀伊半島の南部に位置しています。
この周辺は、太平洋からの湿った風が大台ケ原の急斜面にぶち当たり
水分が冷やされ雨となって落ちてくる、そんなお土地柄です。
よって尾鷲が日本一の降水量を誇っています(最近九州のほうが多いんですっけ?)
そんな大台ケ原から続く山岳地帯にあるのがこの赤木城跡です。
この紀伊半島の南部も見どころが多いです
古来から人の住む場所ですので歴史のある素晴らしいところです。
さらに拡大するとこうなっています。
この周囲は奈良時代から続いていた銅鉱山があり、鉱山を掘っている最中に湧いた
湯ノ口温泉があります。
この湯ノ口温泉はトロッコで行ける温泉です、風情があって良いところですよ。
また、このあたりは棚田が有名です、特に丸山千枚田は美しいです。
さて、赤木城跡を見ていきましょう。
この赤木城は、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が紀伊半島の支配を命じられた際に
その部下である藤堂高虎に作成を命じた城です。
この藤堂高虎も豊臣秀長も両名とも築城の名手で、日本各地に彼らの作った
城が残されています。
山城、平城、平山城、場所を問わずどんなところにでも石垣の城を作れる人たちです。
そこそこ山道なので杖のレンタルがあります。
城の入口あたりには屋敷跡が。
入り口からは石垣が見えます。
戦国後期の築城ですが、山城ですし最低限の防御効果があればいいので形には
こだわっていません、いわゆる野面積みという自然石をある程度加工した石垣ですね。
野面積みでもきちんと大きさの合う石を積み上げ、形を保っています。
石垣の全貌です、ちょうど季節は4月です。
山桜が綺麗に咲いており、霧のなかの城跡にマッチしてますね。
美しい。
東郭と門跡です
友人との比較、結構大きいでしょ。
次に虎口です
このレベルで石垣が残っているんですから凄い。
それほど大きい城跡ではないですが地域の防衛するにはちょうどいい大きさです
こちらが主郭跡です。
主郭跡の説明
関東では曲輪(くるわ)とか丸と言いますが、関西にくると郭(くるわ)というんですかね。
どちらも「くるわ」ですが漢字の当て字が違うのは実に面白い。
郭からの眺め。
地形を利用した要害なのがよくわかります。
主郭も結構広いです、今では桜の名所です。
素晴らしいですよね、ソメイヨシノもいいですが
山桜の可憐だが力強さを感じる美しさが好きです。
西郭の説明。
もう色が落ちてて分かりづらいですが。
先程の主郭からの眺めを下からみてみるとこんなかんじです。
結構深い谷がありますので、こちらからは攻めてこれません。
きちんとこの山城にも指向性があるんですね。
別の角度からみた郭、これで何人くらいで守れたんでしょうかね。
300人くらいですかねぇ。
以上、「赤木城跡」でした。
<有井駅から赤木城跡までのアクセス 徒歩>
最寄り駅から徒歩で5時間。
歩く距離では無いですが、もし頑張りたい方がいればどうぞ!!
行き方としては2ルート、北から南下するのか、南下してから東に行くか。
もしかしたらどちらも酷な道かもしれませんが、国道だし大丈夫だろうとは思います。
[熊野市駅前]から[熊野市バス 熊野古道瀞流荘線]に乗り[千枚田・通り峠入口]まで
[500円]で[35分]で到着。
一日4本ありますので割とアクセスは可能、しかしここから徒歩で1時間近く
かかりますのでやはり車がいいですね。
道中千枚田を見ながら行けるので悪くはないと思います。
・Youtube 水無月の日本探訪記
【藤堂高虎】赤木城跡【霧と山桜】
https://youtu.be/jery15N1LHs
【地下神殿】首都圏外郭放水路【現代の治水】
・Youtube 水無月の日本探訪記
【地下神殿】首都圏外郭放水路【現代の治水】
https://youtu.be/AE-4tSwXsBk
今日ご紹介するのは埼玉県にある「首都圏外郭放水路」です
再開一回目です、みなさん復帰しました
今後とも宜しくお願い致します
場所は埼玉県でも南部の茨城と埼玉の県境周辺です。
先日ご紹介した岩槻城の最寄りですね
そもそもこの首都圏外郭放水路の目的なのですが、この埼玉でもこの地域は
低地となっており、かつて利根川の本流であったところ
かつては東京湾に流れ込んでいたもの。
徳川家康が江戸を開府した際に、治水として瀬替え(流域変更)を行って流域を変えたものです。
あの当時にこの規模の瀬替えを行ったのだから凄いですよね。
言い方を変えると、この徳川家康が始めた「暮らしを水害から守る」が
未だ継続され、進化の最先端を見ることができるというお話でもあるんです。
首都圏外郭放水路は「江戸川」「中川」「古利根川」に接続されており
台風やゲリラ豪雨により増水しそうになったら作動させ
余計な水を地下施設に送り込み、江戸川の水量が安定してきたら
再放水するという施設です。
雨が降り出してから約8時間後に作動させるとのこと。
この施設ができてからこの流域での増水は無くなったとのこと。
今ではこの手の施設は共同溝(違うかも)や荒川沿いにもできており
意外と調べてみると見つけられます。
これがメカニズム。
保存できる水量は、サンシャイン60と同じ体積、そういわれてもピンとこないけど。
排水のポンプを動かしているのはジャンボジェット機のエンジンと同じ
これだけの水を排水できるエンジン4つでやっと空を飛べると考えると
空を飛ぶというのは相当な力技なんだなぁと思う。
首都圏外郭放水路の模型
ここが操作室。
かつてウルトラマンでも使われていたそうな。
使いたくなる気持ちもよく分かる。
深刻な顔して「今だ!」とかいってたら様になるもんな。
絵を見てみると確かにここは浸水しやすいんだろうな、と思えるお土地柄なのがわかる。
三郷にある、地上タイプの排水機場。
中川と江戸川を結ぶ水路で、お互いの水量をみて川の水位を調整する施設です。
八潮排水機場の説明。
こちらはより西側にある綾瀬川と中川の水量を調整する施設です。
松戸排水機場の説明。
こちらは坂川と江戸川の水量を調整する施設。
その他の排水施設。
こうやって見ると江戸川って大量の水を吐き出す先になっているんですな。
いよいよ中へ。
こんな感じの階段を下って行きます、エレベータなんてものはありませんので
見学の際は注意してください、そこそこ疲れます。
ポンプが動く際、ここで眺めることはできないので観光客向けの案内ですな。
ここがいわゆる地下神殿と言われている所。
柱の本数は59本。
これだけの本数がなければ、入水時の浮力で建物が浮き上がってしまうそうだ。
これで思い出すのは東京駅。
東京駅も毎日ポンプで地下水を吐き出しているのだが、止めると駅が浮き上がるくらいに地下水が湧いてきているそうですよ。
昔海だったしそういうもんなんでしょうね、あそこは。
水が上がってくる場所。
ここに水が溜まっている瞬間とかたまりつつある光景を見てみたい。
通常の道が使えなくなっても他のルートがきちんとあるんですな。
こうやって見ると普段の水位がどこまでなのかよくわかりますな。
微妙に水が残っているところが現役施設ということがよくわかってナイス。
掘っていく時に使ったシールドマシン。
時計になっているのもナイス。
シールドマシン時計の説明。
排水施設の吐出口
その上にあるポンプ
近くでみるとこんな感じ
排水機場側のポンプです
最寄り駅からは徒歩30分程度、散歩するにはちょうどいいですね。
大宮駅から約1時間程度、ただこの道はすっごく混むのでもっと余裕をみてくださいまし。
上ページ下部の「龍Q館(りゅうきゅうかん)」参照のこと。
曜日によって本数と時間が変わるようです。
・ちなみに他の手段はこちら
・Youtube 水無月の日本探訪記
【地下神殿】首都圏外郭放水路【現代の治水】
https://youtu.be/AE-4tSwXsBk
錦帯橋の思い出
正確には錦帯橋では無いのだが、数年前に山口県の錦帯橋に行ったときのお話。
錦帯橋はついでで、メインは吉川資料館である。
ここにたまたまなのか、毛利元就が子供に当てた「三子教訓状」を
見るために立ち寄った。
「三子教訓状」とは、三本の矢の逸話のもとになった話
噂によると、毛利元就のボヤキが沢山書かれているということで是非とも見たかったのである。
実際に見てみると、たしかにボヤキである。
「今まで散々俺は悪いことしたから、お前たち(吉川、小早川)はすっげー肩身狭い
けど許してね。」
的な事が書かれてたりする。
ああ、毛利元就も人間なんだな、と思えた一瞬である。
雨上がりの錦帯橋はそれほど人も無く落ち着いて見ることができたのであるが
当時、それほど橋に興味なかったので、土手沿いにある
ちょっとした飲み屋的な店で昼食を取ることに。
そこでのお話なのであるが、趣味でやっているような感じのお店。
写真撮っときゃよかったんだけどね、メキシコな感じの内装のお店だった
のだが、食事が出てくる間に店の人と何のことはない話をしていたら
突然、この場所から立ち退かなかければならない、といった混みいった話に。
なんでも、国から土地を借りてここで商売しているのだが
ある日突然、不法占拠しているということで立ち退きを要求されているのだと
旅行者としては何もできない、話を聞いてあげることしかできない。
国が出ていけというのであれば抵抗することはできないんだろう
今ではどうなっているかは知らないが、こういう旅先での人との出会いもあるんだな。
という、素朴な旅での人との思い出でした。
【映画鑑賞】鉄道員(ぽっぽや)をみて
坊津の思い出
九州は鹿児島の坊津に行った思い出。
残念ながら写真は保存しいてたHDDが死んでしまったいるので
写真はないのであるが、思い出を語っていこうと思う。
この坊津というところ、平安時代で外国人を受け入れる場所の一つであった所。
当時受け入れ口を絞っており、江戸時代でいう出島的な存在なのである。
以外だよね、平安時代すでに日本は外国人の受け入れ場所で制限していたという。
他に受け入れる場所は福岡だったかな。
福岡で受け入れるのと鹿児島の坊津で受け入れるのじゃ、その後の交通の工数が違いすぎるよなぁとは思う。
それだけ海外からの流入者を警戒していたんだろうね。
平安時代日本に招聘された鑑真も坊津からの受け入れなので、どんな人でも
平等に坊津で受け入れていたようだ。
と、坊津にある鑑真記念館で学んだこと、そしてもう一つ学んだことは
この鹿児島という土地は、明治に廃仏毀釈の際に割と強めに廃仏が
行われた場所でもあり、びっくりしたのだが藩主である島津家の
菩提寺?(先祖が祀っている寺)も徹底的に破壊されたという。
島津藩ってお殿様とそれ以外の人という世界観で構成されている所というイメージだったのでこれは意外だったなぁと。
こういう情報は意図的に集めようとおもわなきゃ集められないので
旅行で行った先で偶然にでも入手できるとほんとうにありがたい。
上記2点が坊津に行って知ったこと。
やっぱ行ってみるに限る、いかなきゃわからん話もあるね。
あと、坊津での出会いとして、坊津というか枕崎でもあるんだが
戦艦大和の慰霊碑のある平和祈念展望台が枕崎と坊津の間にあるのだが
ここに行った時に案内をしてくれるボランティアの人との会話。
この人は地元の人ではなく、大阪からの移住者であるとのこと。
戦艦大和の話よりも、当時のわたしは移住についてのほうが興味があったので
よくよく聞いてみると、やはり地元の人と移住者の間には大きく隔たりがある
ので、移住者は移住者で集まったほうが結果的にはよいコミュニティーになるとのこと
これを聞いて、もし地方に移住することになったら私もそうしようと思う。
こういうのも現地いかなきゃいけない情報ですからね。
いや、ほんと旅行は楽しい限りでございます。
もう一度坊津に行って情報の更新をしておきたいところである。
私の道の先駆者
旅をしていると、その土地土地にまつわる話
歴史、文化、風景、色々なものが見れます。
それが実に面白く、楽しい。
一つの旅先を回り終わった時に、旅をまとめる
その土地の特徴をまとめる、次の旅を機会を作って行う。
そして次の旅先の土地でも同じことをする。
そうするとね、不思議とよく出会うフレーズがあるんですよね。
大体出てくるこの名前。
そう、
この4名。
私自身がそんなに人のこないところばかり行ってるせいもあるんでしょうが
行く先々で目につくんですよね。
その度に、「ああ、やはり先を越されていたか」という気になってしまう。
先人なので当たり前と言えば当たり前なんですが。
まぁ、このうち弘法大師は異常なまでの出現率なのでこれは別の人の足跡が
上書きされたんだろうと思っているのでいいとして
残三名は時代も時代さながらよく回った人だなぁと思う。
今ほど交通機関の発達していない時代、車なんかも無かった時代の人もいるでしょう。
立松和平はついこないだまでご存命だった人なので、アレですが
それでも私と同じような興味を持つ人だったんだなぁと思うと
世間は狭いものだと思う。
地層なんぞみて楽しめる人なんて私くらいしかいないんじゃないの?
と思っていたけど、意外と同じような趣味を持つ人はいるもんだと
少し安心したというお話でした。