休みかぁ

よくよく考えてみれば、こんなのんびりした時間をとれたのは

今までの人生で中学高校大学の休みの時期と

10年前くらいにベル麻痺で顔面麻痺した時に治療のため2週間程度休んで以来。

 

あんときゃ上司から「後輩の部下」になるか「辞めろ」って言われたんだっけな。

自分で選んで入社した会社に、自分の意思以外で辞めるとなると

自分に負けた気がしてどうも納得がいかなったんで

結局「後輩の部下」になるという屈辱的な選択肢を選んだっけか。

 

中高男子校で山岳部なんていう年齢=上下関係、それは鉄の掟の世界

みたいなところで育った人間としては葛藤でしか無い選択肢だった。

今思えばそんなプライド、氏神様に奉納しちまえよとしか思わないけど。

 

耐えに耐えて耐えた結果、それがベル麻痺って形で出てきたんだっけかな。

復帰後も腫れ物に触るような扱いされてたっけ。

まぁ、そんな上司も後輩もみんなもう会社にいねーけど。

 

今思えばまだまだ角が沢山あったね、それから色々な業務を経験し

色々な人に揉まれていく中で随分角が取れてきた気がする。

 

軽症だから言えるけど、ストレス以外の形で休めることに感謝。

まだ給料をもらえてるから言える一言なんだろうけどさ。

 

昔なら、先の不安を勝手に想像してめっちゃネガティブになってだろうけど

今はこの状況を楽しむというポジティブ思考に。

 

人間変わると決意した時点で既に変わっているんだな、と実感します。

Blogをやっている人たちというのは多かれ少なかれ自己表現することが

大好きな人達であり、自分の体験談が誰かにとっての気づきや喜びに

なってもらえれば幸い、と思っていただいている方々だと思います。

 

こういうタイミングになった時に、こういう場で

そういう皆様に自分の意見や想いを一方的ではあるが、受け取ってもらえるかも

しれない環境にいること自体が幸せかな。

と、思えております。

 

 

今回の反省点

これは私固有のお話だと思うので自分に当てはめないでくださいね。

 

ここ数日間で体調を崩す要因について思い当たる節は幾つかある。

まず一つは、うがい薬でうがいをしたこと。

多分薄めるの失敗して濃い目にしちゃったんだろうね

うがいをしてからどうも扁桃腺が痛かった

 

そして、火曜日から断食を開始していたこと。

いわゆるファスティングを調子に乗って更に延長したこと

 

おそらくこの2つの要因が相俟ったんだろうなぁ。

 

なので、うがい薬が悪いってんじゃないし、ファスティングが悪いってんじゃないんだよね。

 

と、ここまで考えてみてやはり今回の敗因のトリガーになるのは

そもそも扁桃腺を腫らしてしまったこと。

これね、冬のこの時期乾燥対策として加湿器つけて

免疫高めるためビタミンも摂取し

毎日1時間の散歩はしてるが

う~~~む

 

人間のバイタルは各個人様々なので、たまたま私は今回負けたと言うだけね。

でもまぁ、このレベルで自然免疫獲得できたとするなら

良かったのかな、とポジティブに捉えておこう。

 

ということで、皆さん気をつけ過ぎてもそれが心を追いやるので

 

「かかってもなんとかなんだろ」

 

くらいの気持ちで生きましょう!

 

では。

 

 

 

 

しばらくお休みします

アレになったんでちょっとおやすみしまーす。

アレって何?

そりゃアレだよアレ。

とやかくいうとアレだからさ、アレ。

 

こういうときって心配なるけど、心配なんてしても一文の得にもならんのよね。

心配する側もされる側も。

 

心配するよりも、「はよ良くなってくださいね。」って祈るほうが

ポジティブでいいよね。

心配って人間味はあるけどネガティブでしか無い行動だと思うんだ。

 

と、他人事のように言ってみる。

【読書感想】ホハレ峠: ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡

ホハレ峠: ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡 Kindle
大西 暢夫  (著)  形式: Kindle
ASIN ‏ : B089Y7V6XV

 

を読んで。

 

先日ご紹介した

m-ryouma.hatenablog.com

 

こちらの藤橋歴史民俗資料館で知った徳山ダム建設について。

 

このダムというものについて詳しく調べてみてみるとダムに村が沈んだ後で

ダムに沈まなかった土地にまだ集落があるものの、なかなかアコギというか

一般的にはアウトだろっていうやり方で立ち退きを強いたケースがあったことを知る。

直接そことは関連のない話ではあるのだが、ダム作ったあとでも

その道の繋がっていない場所で暮らしていた人がいること知る。

そんな人の物語。

 

この村で生まれ、育ち、たった一代で先祖伝来の土地を手放してしまったそんな

人たちの物語。

一人の女性と40年追い続けたカメラマンの二人の物語である。

女性の語りを聞きながら思い出の場所をめぐり思いを馳せるこの情熱に引き込まれる。

一生をつぎ込むだけの情熱を持って何かに当たる、そんな素晴らしい

話がここにあります。

 

どうかこの本が貴方にとって素晴らしい一冊になりますように。

 

 

【白鶴城】岩槻城跡【総曲輪】

Youtube 水無月日本探訪記
白鶴城岩槻城総曲輪
https://youtu.be/MJA6dCYKKKE

f:id:m-ryouma:20220215220554j:plain

今日ご紹介するのは埼玉県にある「岩槻城」です

 

f:id:m-ryouma:20220215220629p:plain

場所は大宮より北に位置し、元荒川沿いの水運の要衝にあります。

関東平野を支配していた後北条氏の支城の一つです。

後北条氏の本城は小田原城になるのですが、この位置で支城と言うには規模が

大きいです。

どちらかと言うとこちらの地域を支配するための本城という位置づけに近いのではないでしょうか。

日本一の平野を抑えていた氏族ですので、こういった大規模な城郭を沢山有しておりました。

記載している城跡は主な支城であり、一つ一つが本城に近い防衛力を持っています。

ここに記載できないくらいに小さな支城が更にありますので、どれだけ勢力を誇っていたかが伺いしれます。

 

f:id:m-ryouma:20220215221003p:plain

こちらが拡大してみた地図です。

岩槻城元荒川沿いにあり、川の水を城内に引いており、沼に囲まれた城となっています。

こういう作りとしては忍城も同じですね。

あちらの城は豊臣秀吉後北条氏仕置の際には水攻めをされましたが

こちらは普通に戦を行っております。

この周辺は堤を作れるくらいの水量を確保できなかったのでしょう。

忍城利根川荒川に囲まれた土地で、河川が幾つもあったのでできた戦略なのです。

 

f:id:m-ryouma:20220215221345j:plain

岩槻城の説明です。

さらっと北条氏を滅ぼしたと書いてますが、ここでの戦は

豊臣軍2万VS2000の寡兵での戦です。

最終的には城兵は半分戦死し、落城したそうです。

 

ここも主力は小田原城に詰めていたんでしょうから、農兵や主力になれなかった兵士が残っていたのかと思うとよく頑張ったと思います。

 

f:id:m-ryouma:20220215221632j:plain

当時の縄張りを現在の地図に重ねたもの。

この岩槻城は周囲を沼や堀で固めていたので総曲輪という、全方向からの攻撃に耐えうる作りになっております。

当然全方向からの攻撃に耐えうるだけの兵力は必要なので、2000人では守りきれないでしょう。

かといって平野部なので山城のような地形に依存する戦もできないので致し方なかったんでしょう。

 

歴史にifは無いですが、小田原城にこもらずに各城で防衛戦を行っていたらどうだったか。

うーん、まぁ籠城って他の城から応援があることが前提だから結局ジリ貧で終わってたかのかな。

 

小田原城での本気での戦は見てみたかったとは思うけど、当事者だったらマジ勘弁!!

って感じでしょうな。

 

f:id:m-ryouma:20220215222107j:plain

この岩槻城の遺構はこのどこかで使われてたかわからない門と裏門

そして土塁が遺構として残っています

 

f:id:m-ryouma:20220215222159j:plain

その中でも土塁はきちんとのこっている部類なんじゃないかと思っています

 

f:id:m-ryouma:20220215222233j:plain

 

f:id:m-ryouma:20220215222249j:plain

 

f:id:m-ryouma:20220215222304j:plain

岩槻城は今では公園となっております。

かつての戦場がこうやって市民の憩いの場にになっているのは素晴らしいことですね。

平和ってありがたいですわ。

 

f:id:m-ryouma:20220215222359j:plain

また、この岩槻城は色々ありまして東武鉄道から寄付された特急の車両や

 

f:id:m-ryouma:20220215222440j:plain

人形を供養するための人形塚

 

f:id:m-ryouma:20220215222504j:plain

300年以上前から時を告げる鐘を鳴らしていたことから時計のオブジェがあります

 

岩槻は様々な文化が発達しているので固有色を持った街でありますね。

 

f:id:m-ryouma:20220215222625j:plain

人形塚の説明です。

 

f:id:m-ryouma:20220215222653j:plain

この岩槻城は今での沼があるため、こういう橋が架けられています。

 

f:id:m-ryouma:20220215222732j:plain

次は土塁です。

岩槻城平山城でもあるため、なけなしの高低差を生かした土塁が残っています。

 

f:id:m-ryouma:20220215222826j:plain

 

 

f:id:m-ryouma:20220215222839j:plain

 

f:id:m-ryouma:20220215222858j:plain

 

f:id:m-ryouma:20220215222917j:plain

鉢形城は3000人、岩槻城は2000人。

寡兵過ぎて絶対に残る側にいたくないですな。

 

f:id:m-ryouma:20220215224628j:plain

なお、小田原城落城後も戦を続けた忍城もやはり3000人程度。

ただ、こちらは水攻めをされていたおかげで兵糧攻めとなり、時間がかかった

おかげで先に小田原城が落城したため、落城しなかったんじゃないかと思っている。

 

f:id:m-ryouma:20220215224701j:plain

障子堀跡。

 

f:id:m-ryouma:20220215224725j:plain

北条氏の城跡についてまわる障子堀、実際にはこんな感じで使われていたみたいですね。

 

f:id:m-ryouma:20220215224805j:plain

 

f:id:m-ryouma:20220215224825j:plain

以上、岩槻城のご紹介でした。

 

 

 

 

 

<岩槻駅から岩槻城までのアクセス 徒歩>

goo.gl

岩槻駅から約2キロ、ちょうどいい距離ですね。

 

<大宮駅から岩槻城までのアクセス マイカー>

goo.gl

大宮駅からは約10キロ。

道路状況次第ですが大体20分程度でしょうかね?

是非とも氷川神社にお参りしてから行ってみてください。

 

<岩槻駅から岩槻城までのアクセス 公共交通>

www.city.saitama.jp

岩槻駅からコミュニティバスで「岩槻城址公園」まで

しかし、平日のみなので要注意です。

 

 

Youtube 水無月日本探訪記
白鶴城岩槻城総曲輪
https://youtu.be/MJA6dCYKKKE

【お台場作った人の家】江川家住宅【明治時代の焼夷弾】

Youtube 水無月日本探訪記
【お台場作った人の江川家住宅明治時代の焼夷弾
https://youtu.be/PcAlUZXWSIo

f:id:m-ryouma:20220214212538j:plain

今日ご紹介するのは静岡県伊豆半島にある「江川家住宅」です。

 

f:id:m-ryouma:20220214212608p:plain

場所はどこかというと、伊豆半島の付け根部分ですね。

近くに世界遺産になった韮山反射炉があります。

 

f:id:m-ryouma:20220214212648p:plain

更に拡大してみるとこちら。

最寄り駅は韮山駅、この韮山で有名なのが

源頼朝が配流された蛭ヶ小島がこのあたりです。

 

当時の島流しは離島だけでなく

「陸続きだけど痩せた土地でおそらくろくに生活ができなさそうな場所」

も含まれます

 

源頼朝のラッキーだった点は、そんな平安時代の認識の島流し先が

実は既に開梱されまくってわりと豊かな土地だったということ

温泉もあるし、反対側の熱海くらいまで自由に移動できたみたいですし。

伊豆國内であれば自由に移動できたんですかね、頼朝さん。

 

とまぁ、そういう源頼朝の縁のある地がここなのです。

 

f:id:m-ryouma:20220214213049j:plain

こちらが重要文化財である江川家住宅の案内板。

案内板に観光ポスター貼り付けるのはやめていただきたい。

 

ここは江川家の住宅でもあり、代官屋敷でもあるのです。

代官ということで、代官が配置されるのは幕府領しかないので、ここは幕府直轄の場所

幕末期に代官であった江川家の江川太郎左衛門こと江川英龍の屋敷である。

代々江川太郎左衛門世襲しているのだが、幕末期の江川英龍が有名。

 

この方の一番有名な業績は、東京にお台場を作ったことと

韮山反射炉を作ったことであろう。

 

f:id:m-ryouma:20220214213936j:plain

こちらが正門、篤姫でも出てきたらしい。

 

f:id:m-ryouma:20220214214016j:plain

こちらが屋敷です

f:id:m-ryouma:20220214214040j:plain

さすが代官屋敷なだけあって土間が広い。

 

f:id:m-ryouma:20220214214121j:plain

こっちらはパン焼き窯。

江川さんは日本で初めてパンを焼いた人物と言われている。

 

f:id:m-ryouma:20220214214206j:plain

ペリーから貰った大砲。

上陸用舟艇に搭載する用の大砲とのこと。

 

f:id:m-ryouma:20220214214256j:plain

普段使い用の竈。

ちゃんと使った跡があるのがいいですねぇ。

 

f:id:m-ryouma:20220214214405j:plain

こちらは駕籠ですね。

日本中を旅しているとたまに資料館で見かけるものですな。

 

f:id:m-ryouma:20220214214448j:plain

こちら生き柱と呼ばれる柱。

基礎が無く、地面に埋めている柱とのこと。

改修の際に1m掘り下げたけど下までは到達しなかったそうです。

 

f:id:m-ryouma:20220214214603j:plain

こんな梁を支えるのだから相当圧力はかかりそうですしねぇ。

 

f:id:m-ryouma:20220214214644j:plain

こちらが中。中は普通の部屋ですね

 

f:id:m-ryouma:20220214214731j:plain

 

f:id:m-ryouma:20220214214804j:plain

本来正門から入ってくるとここから来ます

 

f:id:m-ryouma:20220214214841j:plain

また、この江川家住宅は本屋以外にも幾つか蔵があり、一部公開されている。

 

f:id:m-ryouma:20220214214916j:plain

これが西蔵、駒蔵という珍しい作りの蔵です

 

f:id:m-ryouma:20220214214954j:plain

蔵の説明

この作りはお寺の鐘楼とかでよく使われる作りだそうだ

 

f:id:m-ryouma:20220214215046j:plain

公開している蔵での展示物。

こういった武器が展示されている

 

f:id:m-ryouma:20220214215122j:plain

江戸時代の焼夷弾がこちら。

一応作られてたんですなぁ。

 

f:id:m-ryouma:20220214215303j:plain

火薬の材料もありました。

硝石は日本じゃ取れないのでほぼ輸入ですな。

 

f:id:m-ryouma:20220214215341j:plain

そしてこちらがお台場の設計図ですな

 

f:id:m-ryouma:20220214215410j:plain

 

以上、江川家住宅の紹介でした。

 

 

 

 

 

 

<韮山駅から江川家住宅までアクセス 徒歩>

goo.gl

徒歩20分程度で到着できます。

 

<三島駅から江川家住宅までアクセス マイカー>

goo.gl

三島駅から10キロ程度で到着できます。

近くに韮山反射炉があるので車のほうが便利ですね。

 

<韮山駅から江川家住宅までアクセス 公共交通>

izuspamirai.com

「歴バスのる~ら」というのがあったのですが、現在は無くなってしまった模様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Youtube 水無月日本探訪記
【お台場作った人の江川家住宅明治時代の焼夷弾
https://youtu.be/PcAlUZXWSIo

旅が好き

今日はどこの紹介というよりも、旅をする理由について。

ふと、なんでこんなに旅をするのが好きなんだろうと思ったんです。

思い返してみると、初の旅というのは幼稚園児の頃。

当時バスで幼稚園に通っていたのだが、同じルートで幼稚園に行ってみようと思ったこと。

その時に自分の力で行ってみようと思い、実行に移したこと。

そして、駅からみた街の夕暮れの光景が未だに目に焼き付いていること。

ここに行き着くなぁ、と。

 

この、見たいものを見る、美しい景色を見る。

美しいものを見るというのが原動力なんだろうな、そういったものを見たいという好奇心が突き動かしていたんだろうな。

 

なのでこの日本というところを旅し、心に焼き付く、忘れられない光景を見る

そのために日本を旅してるんだなぁと。

 

そして出会ったこの写真。

f:id:m-ryouma:20220213233722j:plain

ホワイトバランスはいじっているものの、夜の富士山を撮影した写真。

現時点でこれを超える写真は取っていない。

それよりも、この光景を見ることができたという感動がある。

 

この感動を世界の人に伝えたいのです。